どうして著者(わたし)は大学院に進学したの?

お正月が終わり,仕事や学校が始まりましたね。地元は山に面する田舎なので,野生のニホンザルが道路を渡ったり,裏の畑に集まったりしています。面白いのが,地元にいると,ニホンザル(マカク)は,嫌われる対象で敵なのですが,大学にいると,彼らは,研究仲間になるのです。ほとんどの脳の研究は,マカクなどが実験の参加者になっています。脳の構造,特に視覚系(ものを見る)は,人間とマカクでは,ほとんど同じなのです。私たちは,脳の研究が出た時には,どの種が研究参加者になっているかを確認します。他には,ラット(大きいネズミ)や,マウス(小さいネズミ)などの研究も多いです。

 

本当は,人間の脳を知りたいわけですが,研究のために人間の脳にメスを入れたり,電極を刺したりすることはできません。人間の脳を研究する場合は,非侵襲的方法と言って,脳には手を入れない方法,脳に害がない方法を使います。詳しくは,説明しませんが,脳波や脳の血流の変化を計測する方法があります。何か特定のことをしている時に,どんな脳波が見られるかや脳のどの部分が活動しているかを調べます。例えば,足し算などの計算問題を解いてもらっている時の脳活動や,映画を見ている時の脳活動を計測するなどがあります。今のところ,脳活動を見ただけで,何を考えているかなどはわかりません。

 

さて,今までのブログでだいたい,基本的な発達心理学の知見を書いてきました。まだ書いていない内容としては,言語発達や道徳性の発達,脳の発達,知覚の発達などでしょうか。少しずつ書いていきたいと思います。今回は,地元に帰ってきて思ったこと,思い出したことを今の研究に絡めて書こうと思います。

 

やはり,大学院生は,なぞの職種のようです。私の同級生は,基本的に数年働いている人が多いので,給料がもらえない学生でいるのは私だけです。そして,あと最低5年かかるというと,驚かれます。30歳になってしまいますからね。しかし,このようなことは,大学にいるとあんまり考えません。結婚や出産も増えてきました。どうにか,私が日々勉強していることが少しでも,役に立たないかなあと思って,ブログを書き始めた部分もあります。地元で働くことはありませんが,地元の子どもたち,パパママへの支援をしていきたいです。

 

私は,大学院で研究を続けることを,大学に入る前から考えていました。以前にも書きましたが,私は,子どものころから,生きている意味を見いだせないことで悩んでいました。どうせ死ぬのですから,何をやっても意味がないわけです。家族を含め,他人とは分かり合うことはできませんし,できるだけ関わりたくありませんでした。そのため,自分(人間)は孤独であることから出発して生きることを考える必要がありました。表向きは,部活や勉強をがんばっている感,友だちや恋人と仲良くしている感を出している優等生だったわけです。

 

そんな中で,哲学や心理学の本は,一つの生きる希望となりました。ただもがくだけでなく,もがくヒントをくれるような感じです。そして,悩んでいるのは私だけではないことがわかりました。時空間を超えて,仲間がいたことに気づくような感じです。なるほど,デカルトは「われ思うゆえに,われあり」と言ったわけだ。感覚や身体は,信じられないんだな。確かにそうだな。あとはあとは?ぬぬ,ニーチェニヒリズムは,ネガティブとは何か違うな気がする。ふむふむ。などなど,「そんなこと考えてもしょうがないよ。」という,周りの人たちよりも,本の中の人たちは,私と会話をしてくれました。

 

心理学の本は,人間がどうやって生きているかを教えてくれました。フロイトの無意識は,私にとっては革命的なものでしたし,エリクソンアイデンティティは,まさに今の自分を説明していることにびっくりしました。なるほど,私のこのコンプレックスや劣等感だったり,あの人の行動は,こういう理由があったのか,なんか心が楽になるかもしれないと思いました。あとは,大学で,ラマ・チャンドランの「幻肢痛」(事故などで失った体の一部が痛むという現象)やマイケル・ガザニガの「半側空間無視」(視界の半分が見えなく,かつそのことに本人が気づかない現象)を読んで,人間の不思議さに魅了されました。意識と無意識に興味を持ちはじめました。

 

こういった,生きている意味や生きている世界のおもしろさを考えることが,わたしにとっての生きるモチベーションだったのです。これらを考え続けられる生き方をしたいと思っていましたので,哲学や心理学を勉強できる大学を選び,そのまま大学院に進学しました。私の研究のテーマも必然的に「意識」となったわけです。そして,こういった研究の知見は,生きる希望になると身を持って知っています。子ども時代の怖くて寝れなかった夜が,少しは減るかもしれません。考えてしまう自分を受け入れるのに,多くの時間がかかりました。

 

お笑い芸人は,笑いを提供するわけですが,私も,生きていることのおもしろさを提供したいと思っています。研究をしていると,その研究の社会的な意義(社会の役に立つのか?)と学術的な意義(他の研究の役に立つのか?)を考える必要があります。とても大切なことです。しかし,それに加えて,科学の進歩は話のネタになりますし,おもしろいです。「人間とはなにか」「わたしとはなにか」は,自分を知りたいという欲求を表しています。「なぜ生きているのか?」も同様です。生きようと思える。生きたいと思えるかもしれない。そしてここに,人文科学の可能性と必要性があると思います。私のなかでは,家族や友人などの人間関係ではなく,哲学や心理学などから自分で考えることによって救われたという感じがあります。

 

ただ,私には,難しいことがあります。私は子どもの「いまここにあるわたし」を研究しているわけですが,私自身は,「」を感じることはできるのですが,楽しむことができないのです。「楽しい」という感覚がよくわかりません。だからこそ,子どもたちの楽しそうな様子に引き付けられるのかもしれません。私は,気楽に生きることができないことを確信しました。だからどうせなら,とことん気苦労に,「生きること」に向き合おうと決めました。「生きている(世界)」ことを「意識」する主体としての「わたし」の発生と発達を考えています。

 

今回は,まとまりのない私の大学院に進学した経緯を書きました。私にとって,研究し続けること,生きることを考え続けることは,生きるモチベーションなのです。これがなかったら,たぶん,生き続けてこれなかったと思います。これは,寂しい人生なのでしょうか?よくわかりません。

 

おすすめの本は,

『人間らしさとはなにか?ー人間のユニークさを明かす科学の最前線』マイケル・S・ガザニガ

-> 文庫本になっていましたね。『人間とはなにか』

『脳のなかの天使』V・S・ラマチャンドラン

です。べらぼーにおもしろいです。分厚さに注意ですね。

まだ,生きていたいと思えた本です。