筆者(わたし)が発達心理学・発達科学を選んだ理由ってなに?

少し間が空いてしまいましたね。これからやる実験の予備実験をしているのですが,細かい修正や集まったデータを分析していると気づいたら,帰る時間になってしまうことが続いていました。予備実験とは,実験の本番をする前に,準備していた実験の道具などがちゃんと使えるかどうかを試すための実験です。例えば,たくさん画像を見せる実験では,見せる画像には,具体的にどの画像を使うかや,たくさんとは,具体的に何回やれば良いかなどを決めるために,予備実験を行います。上に書いたような,これから進める研究と,以前にやった研究のポスター発表が来週あるので,その準備をしないといけないんですが,頭がぼーっとしてしまって進まないです。秋ですねえ。やたら眠いです。

 

今回は,わたしが,発達心理学・発達科学を研究分野に決めたことについて振り返ろうと思います。といいつつ,理由や思い出は,今のわたしが後付けで作り出しているものであるし,理由は一つではなく,いくつかの流れがあるように思いますので,思いつく限りで書きます。

 

まず,3,4歳以前の記憶は,ほとんどありません。これは,わたしだけに起こっていることではなく,「幼児期健忘」という現象です。不思議なことに,ヒトは,3,4歳以前のことは,忘れてしまいます(正確には,思い出せない)。これには,言語の獲得と習熟が関係していると言われています。ですので,年中さん・年長さんあたりからの記憶はあります。「ことば」で伝えることが苦手で,多動や衝動傾向が強くて,不安傾向も強かったです。エピソードとしては,トイレに行きたいことを言えずに漏らしてしまったり,お腹がすいて,開かないガラスドアを無理やり壊して、足をざっくり切ってしまって救急車で病院に搬送されました。カッとなったらすぐに手を出してしまうことが多かったです。また,指しゃぶりやおねしょは,小学校高学年まで続きました。いつも,怒られて泣いていました。

 

このような,自分にまつわる記憶を,「自伝的記憶」や「エピソード記憶」と言います。テレビなどで記憶喪失の患者さんが,「ここはどこ?わたしはだれ?」と言いますが(記憶喪失は,専門用語で「健忘」と言います),この人は,「ここ」や「わたし」という言葉や意味,日本語を覚えていますね。これらの記憶を,「意味記憶」と言います。つまり,よく言われる記憶喪失は,「わたし」にまつわる記憶にアクセスできなくなることを言います。また,このような記憶は,今のわたしを説明する手がかりであり,今のわたしの人格を形成しています。就活や面接では,「なぜ,○○なのか。その経緯を説明しなさい。」となるわけです。記憶は,あいまいで,わたしたちは,思い出すごとに微妙に異なった記憶を作っています。記憶は,その時々で,作られているのです。そのため,就活のためには,自己分析をして,ある程度記憶を固めることをしますね。論理的に一貫したストーリーを作って,それを発表するのです。

 

わたしの話に戻ると,そのような経験と,怒られた経験,惨めな気持ちを繋げて記憶しています。怒られることはわかっていても,やってしまう。だめだとわかっていても,やってしまう。このような,自分はやりたくないのに,やってしまうことが苦しかったですし,それをわかってもらえないことがもっと苦しかったです。また,このような時には,怒られても言い訳ができません。「どうして○○なの!?」と言われても,わたしにもわからないのですから。黙っていても怒られます。「なにか言いなさい!?」と言われても,怖くて何も言えません。泣くことしかできないのですが,泣いているとさらに怒られます。こういう場合,子どもはどうしたら良いのでしょうか?多くの家庭でも同じようなことはあるのではないでしょうか。わたしがわたしではなくなるような感覚や,すぅーっと自分が遠くなる感覚は,離人体験と言われますが,それに近い感覚がありました。

 

このような記憶は,ずっと残りますし,当時はすごくつらかったように思います。上記のエピソードから,わたしは,小さい子どもは,表には見えなくても,悲しい思いやつらい思いをしていることを考えずにはいられないのです。また,どうやったら,うまくいったのだろうと考えると,子どもだけではなく,大人との関係を考慮しないといけないと思います。わたしは,おそらく「気難しい気質」だったと思われ,育てるのは大変だったと思います。特に,情緒はかなり不安定だったのだと思います。このような知識があれば,親も少しは,子育てしやすかったのではないかと思います。

 

小中高でも同じような経験をしてきました。多動・衝動の傾向や不安傾向が強かったのを,抑え込もうとしては失敗していました。連想ゲームのように,頭の中で常に誰かが話し続けたり,気持ちが高ぶってしまうと落ち着くことができなかったりして,話に集中できないこともありました。授業中に,しゃべってしまって,何度も注意をされました。しかし,前頭前野がしっかりと発達してくれたおかげで?,高校ぐらいでは,むしろ抑制が強くなって,ほとんど人に話しかけることがなくなり,今では,気軽に人に話しかけるのが苦手になりました。声を出すことを躊躇してしまいます。あいかわらず,自分の頭の中や感情をコントロールできないことを不思議に思っていました。しかし,コントロールできないなりに,少しずつ我慢のようなものや集中ができるようになることも感じていました。できないことだけでなく,その変化にも興味を持ち始めました。

 

わたしにとっては,年齢ごとに,少しずつ異なった,「生きづらさ」を感じてきていて,それらがどうしたら改善されたのかを考え続けていたら,今に至ったという一つの流れがあります。「あの時,どうしてほしかったのか」を考えるためには,「あの時は,発達的にどういう段階・状態だったのか」を考えなくてはいけません。しかし,それだけではなく,「あの時の,親や先生は,どうしたかったのか,発達的にはどうか」も考えなくてはいけません。私は,過去の自分を回収するために,発達心理学・発達科学を勉強しているのかもしれません。そして,できるなら,同じような思いは,子どもたちには味わってほしくないなあと思っています。これが,子どもの研究にこだわる,一つのモチベーションです。

 

もう一つは,「生きづらさ」がなぜ生じるのかを考えた時に,そもそも,生きづらさを「感じる」「わたし」があるせいだと思っていました。わたしは,「死」や「無」,「暗闇」が怖くて,寝れなくなることがあります。こんなに怖いのなら,生まれなければ良かったのに!不公平だ!死ぬのがわかっていてどうして生きないといけないんだ!と,神様に怒ったことがあります(小学生の時だと思います)。かわいらしいですね。たたかれたら痛いし,なにかわからないこのモヤモヤは,なんだろう?わたしだけなのかな?ということばかり考えていました。でも,考えてみると,頭がおかしくなりそうなほど,複雑なのです。この流れで,「こころ」や「意識」,「感じる」,「わたし」ってなんだろう?どうしてあるのだろう?ということを考えるようになりました。「いまここにあるわたし」がテーマになったのです。

 

このような流れによって,今に至っています。しかし,次に話すときには,微妙に変わっているし,違うエピソードから,違う結論に到達するかもしれません。しかし,わたしにとっては,「生きづらさ」が大きな意味を持っているようです。また,研究のテーマが,私の人生観にも関わっているので,公私が混同してしまうことは,考慮しないといけないとも思います。50年後ぐらいには,何かわかっているのでしょうか。